78年前、終戦後の東京。焼け野原の自宅跡地に座り込む12歳の少女。それはエッセイストの海老名香葉子さん、現在89歳。落語家の故林家三平さんの妻でもある。
エクボのある穏やかな笑顔が印象的な海老名香葉子さん。戦争孤児としてこんな苦労をしてきた人だったのかと、新聞の記事を読んで正直驚きました。
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1945年3月10日の東京大空襲で、父母と兄弟、祖母6人の家族の命が奪われた海老名さん。戦後、都内のおば夫婦のところに身を寄せていた。
極度の窮乏の中で、やさしかったはずのおばの態度は一変していた。
ときには怒鳴られ、モノを投げつけられた。「お前なんか死んでくれればよかった」と罵声を浴びたことも一度や二度ではなかった。自分は「余計な子」なんだからと心を殺し、ひたすら耐えた。
早く父ちゃん母ちゃんのところに行きたい。「父ちゃん、母ちゃん、お空の上にいるなら、私も一緒に連れて行って」・・・心の中で叫んで、焼け跡で泣いた・・・
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戦後、海老名さんは各地の親戚宅を転々とした。住み込みのお手伝いのような形で、他人の家で暮らした時期もあった。どこでも「余計な子」として居場所のない思いをした。
そんな時も手放さず、大切にしてきたのが、疎開先に届いた父母や兄弟からの手紙の束。
「神様よりも仏様よりも、この手紙が私を守ってくれていると思っていました」
可愛がられて育った記憶、輝くように幸せな少女時代の記憶。
その記憶があったから、戦後を生きられた。なんの思い出も無かったら死んでいたかもしれない。
「大事に育ててもらった両親のことを思うと、死ねないなと思いました」
あ〜、幸せの記憶だ‼️・・・私の会社セザンでやっている「幸せの記憶」というワークの意味を、改めて再確認したことでした。
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