2020年3月21日、93歳で亡くなった宮城まり子さん。
1968年、肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立。成人しても施設にとどまれるというやり方は日本初とのこと。
以来、50年以上も子供たちと歩んで来られた。
「やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ」
これはねむの木学園の合言葉。
宮城まり子さんは、1955年「ガード下の靴みがき」で歌手としてデビューした人。女優でもある。
聞いた話では、たまたま仕事で身体の不自由な子供たちと出会い、「見ちゃったら放っておけない」と、何も分からないまま、ねむの木学園を設立したとか。
まだ30歳あまりの時に決断されたのですね〜
それから、いろいろと苦労もあったことでしょう。
「まり子おかあさんへ」という、子供たちとの手紙のやりとりの本の中に、こんなことが・・・
「本当は悲しさのあまりどうしようもなくて、12月25日、あなたたちを毛布につつんで、暖かくして、外に出して、ねむの木学園に火をつけて、もしてしまおうかと、考えたこともあったわ。真剣にね。
そうしたら、誰にも知られずに、あ〜ぁやっぱり女優は駄目だな、子供の手伝いをするなんていったって、駄目でノイローゼか。バカダナって私一人が笑われて終わっちゃうんだなって、何日も、何日も、考えたわ。
そして、やっぱり、やりはじめた仕事だからと、考えなおした時、おなかの底から笑いがこみ上げてきて、外に出た。夜中の4時。
チカッて光る星がね、私に「大丈夫よ」っていってくれたみたいな気がしたわ。すっと流れが星は、私の側についていてあげるわ、と降りてきてくれたみたいな気がした。
あの星は、私の星だ、そう思ったら、小さな小さな星がね、みな、たくさんおしゃべりしてくれたの。
マリコ、マリコ、マリコ、マリコ、マリコ、マリコ、マリコ、マリコ・・・
私は、ありがとうってなにかにいったわ。そして、12月25日、冬の海辺にいって、思いきり泣いた。
でも、その時、波さえも、私のともだちに、思えたの。私、それほど、つらかった。
いま。気がついたよ。小さな小さな星たちは、あなたたちだったのね。「大丈夫よ」って、「側にいるよ」って、いってくれたのは、あなたたち。
そうね、あなたたちがいるから、大丈夫ね。」
亡くなられたと聞いたからこそ、こんな想いに触れる機会がありました。
「もう無理!」「投げ出したい!」「死んでしまいたい」
何度もそんな想いに駆られながら、自分の使命としてやって行く・・・
この世の中には、そんな想いをしながら懸命に生きている人たちがたくさんいるんだろうなぁと、人としての崇高さに思いを馳せました。
あまりに高すぎて、とても近づける気がしませんが・・・
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