土曜日の夜にやっていたNHKスペシャル。
その人は、やはり長谷川和夫先生でした。
「痴呆症から認知症に名前を変えた人」「認知症検査の長谷川式スケールを生み出した人」「認知症の家族の負担を考えてデイサービスを考案した人」、、、いろんな意味で、文字通り認知症の第一人者。
その先生が「認知症になった」とカミングアウトされたことは、以前のブログにも書いた通り。
そしてそれから2年半。その後の活動、講演会でのお話だけでなく、ご自宅での様子を含めて、全てを見せておられる、、、と言うよりさらけ出しておられる姿を見て、揺さぶられるほどの感銘を受けました。
ご自身の言葉から、、、
「認知症になってみないと分からない」
「自分自身が壊れていきつつあると言うことは、ほのかに分かっている。」
「こんなことを言うとおかしいのではないかと思うと、寡黙にならざるを得ない。」
「生きて行く上での確かさが日々少なくなってきている。」
日々失われて行く「確かさ」に抗うように、外出する長谷川さん。僕の生きがいは何だろう?と。
支えているのは、奥様の瑞子さん。いつもニコニコと微笑んでおられる。
「朝起きると、何とも言えない不安な気持ちになるのです。でも、瑞子と交わす何気ない言葉で、だんだん不安が消えて確かさが戻って来ます。」と。
娘のまりさんは講演会などのサポートをされながらも、父親との向き合い方に不安が膨らむ。今までやってきたことの尊厳が崩れてしまうのではないかと。
認知症家族の負担を軽減するために、デイサービスを提唱した長谷川さん。今度は自分が入る側になる。
笑顔がない。目が死んでいる。
「あそこに行っても僕は孤独。行きたくない。」「僕の戦場に帰りたい」と。
そのことでの娘のまりさんとのやりとりの末に、
「君は僕が死んだら喜ぶんじゃない?みんな楽になるでしょう」
と。
あの立派な先生が、、、
その、「人としての弱さ」もあえて見せて下さっている姿には、心が震えました。
そして、徐々に父親を受け入れはじめる娘さん。
「父は昔から家族を楽しませる人だったのです」、、、その人柄は変わっていないと思えるようになってきたと。
「君が認知症になって、はじめて君の研究は完成する」
そう言われたのは長谷川先生の恩師とのこと。
「以前は学問的なことだけを捉えていた。そこにはその人の感情があるのに。」
と、認知症になったからこそ分かったこととおっしゃる。
最近の先生の習慣は、1日の終わりに必ず「瑞子ありがとう」と、目を見て、頭を下げること。
「認知症になったら余分なものは、はぎ取られる。よく出来てるよ。神様が用意してくれたんだね。」
そして最後にドキュメンタリー番組からの質問。
「今、見えている景色はどんな景色ですか?」に対して、
「認知症になっても見える景色は何も変わらないよ」「そのままだよ」
人は年をとる。出来ないこと、分からないことが増える。でも、
「それをそのまま見せる」
、、、そのことに大きな意味があるのでは?と思わせてもらいました。
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