ある時、ある小学校での取り組みが新聞に載っていました。
独自に選んだ「百の詩」を教材に音読し、「言葉の力」を11歳の子供たちに教えていく。
例えば谷川俊太郎の詩、「生きる」。
生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ
生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
読むうちに、なぜかジンワリと自分の中の気持ちが熱くなってくるのを感じます。
全員で読んだあと、連ごとに違う子が朗読劇のように抑揚たっぷりに読んでいく。そして、感じたことを発表する。
「生きていたなら嫌なこともあるけど、生きているからすばらしいこともあるということだと思う」
「ボクもそう思う。2連に『すべての美しいもの』とあるでしょ。それは生きているから感じられる。でも、悪や嫌なことに出会うこともある。それも含めて生きるじゃないかと思う」
先生は結論は決して言わない。
先生の目指すものは、上手な音読、たくさんの暗唱、正確な読解だけではない。
時に相手を励まし、時に相手を傷つけるのが言葉。
その「言葉の重み」を教えることだという。
その授業では、最後に保護者からの手紙のコピーが配られた。
祖父が、がんで手術する日の病室。家族はただ『大丈夫』と繰り返すしかない重々しい空気の中、孫であるこのクラスの男の子が、突然、谷川俊太郎の『生きる』を大きな声で暗唱し始めた・・・
この状況を想像するだけで、目の奥がジーンとするのです。「おじいちゃんを何とかして励ましたい」という男の子の気持ち。
孫からおじいちゃんに贈る、「生きる」ことへのエールですね〜
「この『語り』で、誰が何を受け取ったと思う?」と先生。
その男の子を前に呼んで、もう一度「生きる」を暗唱させた。
最初とは違う「生きる」が、教室に響いた・・・
こんな授業を受けられる小学生。幸せですね〜❤️
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