またまた、シスター渡辺和子さんの話です。
なぜ、シスターの言葉が私の心に響くのか?
その理由のひとつは、シスターも「うつ病」という体験をしておられること、そしてそれを包み隠さず書いておられることです。
大学の学長職に加えて修道会の管区長という重責を担われて、心も体も疲れ果てていらした50歳の頃。
その体験はとても具体的です。
「大学で講義していて言葉が出なくなり、学生たちに『ごめんなさい』と謝ってしょんぼりと学長室に戻ったら、ドアの下に『シスター、今日の講義はとても良かったです』というメモが差し込まれていた。その優しさに涙すると共に、自分の不甲斐なさにまた落ち込んだ」・・・
あ〜分かるわ〜 良かれと思っての言葉で、余計に自分を責めることになってしまうのですよね〜
「『私には今の仕事をする資格はもうない。私の人生は50歳で終わりなのかも知れない』と落ち込み、死ぬことさえ考えました」・・・
シスターのお仕事とは比較にもなりませんが、全てのことに自信が持てなくなる、起きてもいないことが心配で不安でいっぱいになる、自分はダメだと責める・・・
あ〜おんなじだな〜 こんな立派な人でもそんな時があったんだな〜と、人の体験を聞くと不思議と気持ちが落ち着くのです。
シスターは、まわりの人々への感謝の気持ちと共に、良寛和尚の言葉を引用しておられます。
「災難に逢う時節には、災難に遭うが良く候。
死ぬる時には、死ぬが良く候。
これはこれ、災難を逃ぐるる妙法にて候」
「落ち込んだ時は落ち込むのが良いのでしょう。そんな惨めな思いをしている自分を嫌うことなく、いじめることなく、いつか良くなることを信じて、自分と仲良く過ごしている時、心をおおっていた雲が晴れて、明るい日射しが以前より輝いて見えてくるのです」・・・と締めくくられています。
嫌うことなく、いじめることなく、「こんな自分もいていいんじゃない?」と、自分を受け入れること・・・
嫌うことなく、いじめることなく・・・妙に腑に落ちた言葉でした。(けっこう嫌ったりいじめたりしてるかも〜)
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