作家の高殿円さんは、今から1年ほど前に手術のため入院していた。子宮筋腫のせいで大量出血があり、月の半分は貧血状態で過ごしていたが、その改善のために2泊3日で内視鏡手術を受けることになった・・・
新聞の記事を読んでジーンときたのは、次の文章でした。
「全身麻酔とはいえ、やはり手術は怖い。
これから手術室に移動するというタイミングで、病室担当の看護師が『祈ってもいいですか?』と尋ねてきた。
驚きつつも『ど、どうぞ』と答えると、祈りが始まった。看護師は自分より少し若い女性で、手を前に組んで、こんなことをつぶやいていた。
『無事に手術を終えて健康を取り戻し、ご家族のもとにお帰りになれますように』
どうしていいかわからず、ただ祈る姿を眺めていた。
カトリック系の病院だから、ここで働く人は皆クリスチャンなのだろうか、と思いながら。
祈りが終わった後、『お祈りなんてされたの初めてで、ちょっとドキドキしました』と伝えた。
彼女は、祈りは病院から強制されているわけではないが、働いているうちに祈りたくなるのだと教えてくれた。
もう私たちのできることはすべてやったけれど、それでも万が一のことがある。だから祈ってくれるのだと。
作家になる前、医療現場で働いたことがあるから知っている。看護師が決して高い給料をもらっているわけではないことを。毎日忙しく働いて、苦しい思いをしている患者を傷つけまいと気を配っていることを。
無事に手術を終えて退院した後も時折、あの日の祈りについて考えていた。
2020年の年の瀬が近づく中、新型コロナウィルスで医療現場が逼迫しているというニュースが繰り返されていた。
未知の病気の患者を受け入れて、慣れない業務とウィルスへの恐怖に怯えながら働く人たちがいる。
祈られるべきは看護師や医師たちで、今度は私が祈る番だ。
自分のような患者にさえ祈ってくれた彼女たちのために、自分ができることをやりたいと思った。
自らの体験と思いを真夜中のツイッターに書き込んだところ、大きな反響が寄せられた。たくさんの共感が寄せられたことで、祈りには力があるんだ、と実感できた」
・・・私はカトリックの洗礼を受けている、クリスチャンです。
「祈る」ことを忘れていたな〜
「霊的花束(目に見えないお祈りの花束)」という言葉を思い出しました。
若い看護師さんの「祈ってもいいですか?」という純粋な言葉に、心が洗われたようにドキッとしました。
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